大学のサークルや新入生歓迎が辛いこともある、でも大丈夫。

この季節にふと思い出されるのは、大学に入学したラッキーな人たちのための「新歓」こと新入生歓迎(会)です。新歓とは、ありとあらゆるサークルが、もっぱら交流会(飲み会)を組織して大学新一年生を迎え入れること、サークル活動の紹介や勧誘を行うことです。新歓が盛んな4月、私がルッキズムに苦悩させられたという体験談は、co-mediaのコラムに書きました…。

 

さて、私は大学を卒業するまで、サークルに帰属することはついぞありませんでした。どのサークルに顔を出しても、そのグループ独特のルールや単なるルール以外に現象する同調圧力が気に入らなかったからです。

 

私は自分を集団に融合させることができませんでした。集団に入った初期に感じる疑問や違和感みたいなものを乗り越えたら、いつか私もサークルの輪の中で自然といることができたかもしれない。でも、それって正直、息苦しく辛い道のりです。サークルのような集団の「輪」を結合して保持するものが、ルールやその集団独特の規範ー難しいけど、いわゆる「ノリ」とかも含めてここでは規範と呼ぶことにしましたーそのものだ、と私は思うからです。それらに則らない限り、サークルの立派な一員とは認められません。

 

サークルがルールと規範で成り立つことを裏付けるような事象があると私は勝手に思ってきました。サークルメンバーの選抜制です。え?サークルって興味があれば誰でも入会できるんじゃないの!?もちろん、誰にでもオープンなサークルはたくさんあります。でも、メンバーを最初から選抜するサークルも珍しくありません。(少なくとも、早稲田大学においては。)選抜制とは、その集団にとって精鋭な人材、つまり、ルールや集団独自の規範を批判せずそこに迎合しそうな人物を、サークル側から選んでしまおうというシステムです(そうだと私は思っています)。だって、メンバーを選抜したいと思う根底には、すでにできあがった集団の「内輪」を邪魔されたくないから、という割と保守的なホンネがあるんでしょ…?

 

私はTED WASEDAというサークルに入りたくて、新歓よりもずっと後の9月(とは言え、その頃は海外の学校やインターナショナルスクールから入ってくる9月入学組がいました)に連絡したら、一度面談する事になりました。面談といっても、ホンネは選抜テストだったということは、後から分かりました。このサークルは、TED Talkを自分たちでゲストスピーカー等手配して開催するような活動をしていました。当時の私は英語を伸ばしたいと考えていたし、仲良しのハウスメイトが既にメンバーだったこともあって、遅咲きでもいいからもう一度サークルに挑戦しようと思いました。が、もちろんオール英語の「面談」の結果、入会を断られました。私の何が引っ掛かったのかは永久の謎ですー私の雰囲気か、言語力か、はたまた英語の発音かーただひとつ分かることは、私がTED WASEDAの人たちと違う何かを持っていて、それがその集団にとってマイナスになると判断されたという事でしょう。まさか「面談」の後に断られるとは思ってもみなかったので、流石にその時は少しだけへこみました。もちろん、今はなんとも思いませんが。他のサークルでは、顔選抜(見た目の美醜で選ばれる)があるなんて噂も聞いたことがあります。なーんだ、個性や多様性なんて、皆んなタテマエで言ってるだけで本当はどうでもいいのか。そんなふうに肌で感じました。大学生活、塞ぎがちになったりみるみるくさっていったりする人がいるのにも、納得がいきます。

 

もしこれを読んでくれている人が新大学生なら(上から目線と思われるのは承知の上で言います)、どうぞご自身のペースで歩んでいってください。新歓で無理に馬鹿騒ぎしなくても、サークルや集団に受け入れられるために自分を変えなくても、最後に心を許せる友人は、あなたが自分で気がつく前に、ごく自然にあなたの周りに残るものです。あと、たとえ今の自分が理想と、まるで月とスッポンのように離れているように感じても、間違ってもくさって投げやりになんてならないで下さい。だってあなたの事をあなた自身でまず信じてやらなくて、他に誰が信じるというのですか。これは、新大学生へと言っておきながら、本当は私が私自身に一番贈りたい言葉だということを記して、終わりにします。

本日の、りこ!

まずは、友だちのNちゃんからもらった手作りのバニラエッセンスの写真を!ホットケーキを作るのに使いました。写真の後は全く関係のない話始まります。特別感、自信、社会での立ち位置、などについてです。

私はまだ子どもの頃から、自分が特別なんじゃないかと心のどこかで密かに思い続けていた節がある。小学生の頃にドラマ「花より男子」の主人公つくしに憧れて、反抗期の荒れた少年みたいな生意気で失礼な言葉遣いを真似していた。今思えばいかにも子どもらしい心理なのだけど、当時はほかの子どもたちとは違う感じの自分を本気で好きだったし、そんな自分は特別だと思っていた。女の子なのにそんな話し方しちゃダメでしょうと先生から言われている時でさえ(このような発言に問題があることはさて置き)私は特別なんだから仕方がない、と本気で思っていた。流石に私の中のつくしブームは一年ほどで過ぎ去ったけれど、それ以外にも授業中の発言を少し褒められると「こんなアイデアを思い付くのはクラスで自分くらいだ」とか、学校の放送委員会の委員長になると「私は特別なリーダーだ」という感じで、かなり自惚れていた。まあ、子どもだったんだからこんなのも愛嬌のうちだけど。辞書で引く「特別」の意味が「普通一般とは何かしら違っているさま」とあるように、私の幼い心も、私自身が「他の子たちとは何だか変わっている自分」であることを自認したとき、優越感にも似た大きな特別感を得ていたと思う。うん、実にシンプルだな。誰にも同感してもらえなくても、何も言ってもらえなくても、私には関係なかったのだから。私は特別だという自分勝手なルールに則って、堂々と生きていられたのだから。

 

ところで、少し考えたい言葉がある。「自分の感情が揺さぶられるところに本当の自分がいる」という、第54回ミス日本グランプリの河野瑞夏さんが、あるYouTubeの動画で言っていた言葉だ。私が妬みや怒り、悲しみや虚しさ、複雑で暗い感情で渦巻いているのを無意識のうちにシャットダウンして、都合の悪い自分の一面をまるで存在しないかのように扱ってしまう時、この言葉は目を逸らすな、そこにいる自分に向き合えと訴えかけてくる。だから私は、初めて聞いた時からこの言葉をちゃんと理解して頭に仕舞ってしまうのが怖かった。

頭の中の引き出しに収まらず、脳内の無意識の空間をずっと浮遊していたこの言葉を思い出すきっかけとなったのは、私があるイラストレーターのインスタグラムの投稿を見た時だった。彼女は、自身が描いたイラストにフェミニズム系の詩やコラムを添えて投稿するというスタイルを持っている。私は、独特な世界観のある彼女のコメントや絵、また彼女も私と同じイギリス在住という点に興味を抱いて、フォローしていた。そんな彼女のある時の投稿で、ある出版社のウェブサイトでフェミニズムに関するコラム連載を始めることになったと発表がされていた。実に素晴らしいことだ。素晴らしいことなんだけど、私は一瞬、自分でも無視できないくらいなんかどんよりしてすごく捻くれた気分になった。こういう時、何が気に入らないのか自問してもすぐに答えは出てこないのだ。河野さんの言葉のことを考えた。この「なんか嫌だな」と思う蠢いた生ぬるい塊の中に本当の私がいるんだな、と。人の成功を素直に喜べないこんな自分の汚い部分なんて見たくない。でもそこを覗き込んで、埋もれている自分に手を差し伸べられるのは、私以外誰もいないじゃないか。

 

嫉妬や焦りと、どうしようもない不安で私の心はいっぱいになっていた。というのも、彼女はフェミニストで、イギリス在住で、日英の文化的価値観に関する知識や情報の引き出しが豊富で、年齢もそこまで変わらなさそうで、つまり私と共通項の多そうに見えるのだ。そんな彼女が社会から注目されているのを見て、私の自分に対する特別感(自己肯定感に近い)が消え失せてしまったのだと思う。

私はイギリス在住の日本人で、フェミニストで、政治に関心があって、日英文化の間にいるダイアスポラ的な独自の世界の見方を持っていて、だから他の人とは少し違う特別な存在なのだと、どこかで優越感に浸る自分がいたのだ。これは、子どもが自身に抱く屈託のない特別感とは少し訳がちがう気がする。私は自分と周囲を比較し優劣をつけるという醜い作業の中で、自分を客観視できているとずっと勘違いしていたし、心のどこかで安心していた。でも、自分と似通ったバックグラウンドを持つ人がごまんといるのが現実で、そんな人と出会う度に自信や自己肯定感を失っていてはキリがないのだ。しかも、そもそもバックグラウンドというのは、教育、仕事やその他肩書きなどのことも示していると思うが、そんなものはその人の付属的な情報でしかないと思うし、人の個性や特別であることというのはもっと奥深いはずだ。きっと私たち一人一人が、各々の形で特別なのだ。

 

私は日記や好きな言葉をぶつぶつと思うままに書くという記録としての作業はここ数年ずっと続けてはいても、それを人に伝えてみたいと思うようになったのは本当に最近のことだ。きっかけは多分上野千鶴子雨宮まみ鈴木涼美湯山玲子などのフェミニスト文化人や学者のコラムやエッセイ、学問本をたくさん読んだことで、思えばそれらを吸収するうちに、私の小さな夢みたいなものがいつの間にか手のひらで密かに光っていた。私も自分の伝えたいことー日英のフェミニズムや政治などについてーをいっぱい考えて、勇気を出して言葉にして、人に伝えてみたい。エッセイ本なんかも書いたり、雑誌に寄稿したりもしてみたい。私にしか書けないことを書いていこうと鼻息巻いて日々過ごしていた時に、いわば私とある程度似た興味やバックグラウンドを持った彼女が、私が書いてみたかったようなフェミコラム連載を始めると言うのを聞いて、不安を隠しきれなかった。じゃあ、私は何者になって何をすればいいのだろうと肩を落とした。私は本当は特別なんかじゃないのかもしれない。私の嫉妬や焦りは、ここから来ていたんだ。あ、ちなみに彼女はイラストに限らず多岐にわたる分野で活動していらっしゃって、私はとても尊敬しています!

 

自分を特別だと思うことが必ずしも悪だとは私は思わない。むしろ、そんな自分への特別感が自分自身を鼓舞するために必要な時だってあるし、自分を尊重するための大切な心理でもあると思う。でも、そんな特別感に盲目的に浸ってばかりいては、確かな自信や社会における自分の存在意義を見出すことなどきっとできないのだ。私は何者で、私だからこそこの社会でできることとは何なのか、そんなことを振り出しに戻って考えてみたい。答えが出なくても、たとえ社会の椅子が私に用意されていなかったとしても、きっと大丈夫。私は私でい続ければ、その先にあるものは自ずとやってくるのだと信じて。

90週間前の、りこ

自己理解について書いた過去の日記です。以下よりいきなり始まります。

最近はいかに自分を満足させられるか、ということをマインドに置きながら生活してる。自分のことが少しずつ分かってきた気がするんだ。夜は勉強/仕事よりもゆっくりする時間が必要だったり、部屋のライト暗めで音楽聴くのが好きだったり、朝はヨガしたら心安らいだり、内省(ジャーナリング)する機会が週何回かは必要だったり、など。こうやって自分の好き嫌いを理解して、自分のお世話/お手入れをして、自分を満たせるのは何者でもない私だけなんだな。これが色んなものごとの基礎になっている気がしていて、たとえばお付き合いしている人がいると何事もその人に合わせていたり、ずっと自分のこと好きでいてもらいたい一心で、自分自身も知らないところで頑張っちゃっていたりする。でも、どんな人との関係性においても本当に必要なものっていうのは、地に足ついた自分自身なのではないか、と思う。好きなように生きて、自分のことを誰よりも大切にしている私。そういう自己が確立されてはじめて、相手との関係を築いていけるんだと思う。ただがむしゃらに相手を引き留めることばかり考えるのはやめて。それは、自分を無くしてまで相手にいてもらおうとしているのだと思う。自分で自分は何が欲しいか分からないと、相手にどれくらいの距離で側にいて欲しいか、どんな風にいて欲しいかも、分からない。そんな状態で、関係性を対等に築いていくことなど、無理なのではないか。自分のことを知り、自分を守っていくのは、どんな人との関係を発展させるのにも必ず必要なんだ。だから私は、自分のお世話、お手入れは自分でする癖を付けたい。ちょっとこれ書くのにだいぶ時間かけてるからここらへんで強制終了するわ。。。明日早起きするぞ!

151週間前の、りこ

東京の四ツ木という地域でコロナ禍、シェアハウスをしていたときの文章だと思います。以下いきなり始まります。

最近の悩み→スクリーンタイムが多すぎる!!!!!!!!!

本当にどうにかしたい。いつか顔吸い取られるんじゃないか?と思うくらいのレベルでスマホかパソコンのスクリーンを見ている。
最近SNSを活発に動かしていることもあり、暇さえあればスマホを開く。自分のアカウントのリーチ率、フォロワー層を分析してみたり、ネットニュース見たりしていると本当に歯止めが効かなくなる。やばいいいいいいいいいいい!!!!目と首が死ぬ!
上野千鶴子さんの本「女ぎらい〜ニッポンのミソジニー〜」を読み終わってから、スマホへの逃避が激しくなった。新しい本を読もうか。

でもさ!何をするにしてもオンラインなんだからスクリーンタイムはシンプルに右肩上がりが普通じゃん?
困るよね。友だちと会うのも画面越し。カフェでゆっくりおしゃべりとかしたいな。

SNSデトックスしたいんだが、これをすると一気に社会に置いてけぼりにされてしまう…ニュースも入って来なけりゃイベントもみすみす逃す。
自分の活動基盤としてSNSを使いたいから、投稿頑張らなきゃいけない、という自分で自分にかけた謎の鎖みたいなものもあり。困った困った。
それよりも重大かもしれないことと言えば、私の部屋に作業用の机と椅子がない!!!!!!!!
これのせいで最近姿勢が悪すぎる。取り返しのつかなくなる前に正しい姿勢で仕事したい。
最近シリアルとコーヒー朝ごはん🥣☕️

 

105週間前の、りこ

過去の日記をちょっと編集して載せています。以下よりいきなり始まります。

野菜のある生活🥦は豊か。!!とはいえこれは2週間前くらいの写真。今ほぼ冷蔵庫が空になったから食材買い足さなきゃな。ジャガイモとキヌア以外ほぼ何もない状態。何も無駄にすることなく食材きれいに使い切れて嬉しいとは思う。

ところで昨日、話を「膨ら」ませながら自分の思考を言語化するのっていいな、と思った。昨日、私と同じくらいの歳でメンタルヘルスを啓発している、とあるアクティビストさんのインスタライブをちょこっと見たんだけど、お喋りがすごく上手だったし、ものすごい知性を感じた。なんていうんだろなぁ、言葉遣いだけじゃなくて態度も毅然としていて。でも物腰柔らかい感じで。良かった。

彼女はテーマに沿って質問に答えてたんだけど、言いたいことをストレートに言ってしまえばすぐ終わってしまうような話を、途中で少し膨らませて違う話にもっていって、そのあとまた自分の言いたいことに戻ってくる、みたいな話し方をしていた。違う話といっても決して論点のズレではなく、寧ろ論点の為の寄り道っていう感じか。必要か必要じゃないかと言われれば、必要ではないような話だけど、それのおかげで本当に伝えたいことが肥えて、よりリッチな文脈になって伝わってきた。

私はこんな風には話せない、とがっかりした。私はこれまで話す時もド緊張して、思考も態度もコントロールがきかなくなることが多かった。それをここ数年で克服できたと思って、微々たる自信は湧いてきていたのだ。でも、今度の問題は、、、コントロールし過ぎ!話を管理しなきゃ、整理しなきゃ、と焦るあまり思考も態度も言葉遣いも、機械的でカチコチになってしまうという致命的な問題。

自分を情けなく思うことはあるけど、ポジティブにもなりたい。今はこういう問題があるけど、いつかゆったりと流れる大きい川みたいに話せるようになりたい。短い時間しか見なかったけどとても良いインスタライブだった。勉強になった。てか朝4時なのになんでこんなの書いてるん。早く寝ないと。