本日の、りこ!

まずは、友だちのNちゃんからもらった手作りのバニラエッセンスの写真を!ホットケーキを作るのに使いました。写真の後は全く関係のない話始まります。特別感、自信、社会での立ち位置、などについてです。

私はまだ子どもの頃から、自分が特別なんじゃないかと心のどこかで密かに思い続けていた節がある。小学生の頃にドラマ「花より男子」の主人公つくしに憧れて、反抗期の荒れた少年みたいな生意気で失礼な言葉遣いを真似していた。今思えばいかにも子どもらしい心理なのだけど、当時はほかの子どもたちとは違う感じの自分を本気で好きだったし、そんな自分は特別だと思っていた。女の子なのにそんな話し方しちゃダメでしょうと先生から言われている時でさえ(このような発言に問題があることはさて置き)私は特別なんだから仕方がない、と本気で思っていた。流石に私の中のつくしブームは一年ほどで過ぎ去ったけれど、それ以外にも授業中の発言を少し褒められると「こんなアイデアを思い付くのはクラスで自分くらいだ」とか、学校の放送委員会の委員長になると「私は特別なリーダーだ」という感じで、かなり自惚れていた。まあ、子どもだったんだからこんなのも愛嬌のうちだけど。辞書で引く「特別」の意味が「普通一般とは何かしら違っているさま」とあるように、私の幼い心も、私自身が「他の子たちとは何だか変わっている自分」であることを自認したとき、優越感にも似た大きな特別感を得ていたと思う。うん、実にシンプルだな。誰にも同感してもらえなくても、何も言ってもらえなくても、私には関係なかったのだから。私は特別だという自分勝手なルールに則って、堂々と生きていられたのだから。

 

ところで、少し考えたい言葉がある。「自分の感情が揺さぶられるところに本当の自分がいる」という、第54回ミス日本グランプリの河野瑞夏さんが、あるYouTubeの動画で言っていた言葉だ。私が妬みや怒り、悲しみや虚しさ、複雑で暗い感情で渦巻いているのを無意識のうちにシャットダウンして、都合の悪い自分の一面をまるで存在しないかのように扱ってしまう時、この言葉は目を逸らすな、そこにいる自分に向き合えと訴えかけてくる。だから私は、初めて聞いた時からこの言葉をちゃんと理解して頭に仕舞ってしまうのが怖かった。

頭の中の引き出しに収まらず、脳内の無意識の空間をずっと浮遊していたこの言葉を思い出すきっかけとなったのは、私があるイラストレーターのインスタグラムの投稿を見た時だった。彼女は、自身が描いたイラストにフェミニズム系の詩やコラムを添えて投稿するというスタイルを持っている。私は、独特な世界観のある彼女のコメントや絵、また彼女も私と同じイギリス在住という点に興味を抱いて、フォローしていた。そんな彼女のある時の投稿で、ある出版社のウェブサイトでフェミニズムに関するコラム連載を始めることになったと発表がされていた。実に素晴らしいことだ。素晴らしいことなんだけど、私は一瞬、自分でも無視できないくらいなんかどんよりしてすごく捻くれた気分になった。こういう時、何が気に入らないのか自問してもすぐに答えは出てこないのだ。河野さんの言葉のことを考えた。この「なんか嫌だな」と思う蠢いた生ぬるい塊の中に本当の私がいるんだな、と。人の成功を素直に喜べないこんな自分の汚い部分なんて見たくない。でもそこを覗き込んで、埋もれている自分に手を差し伸べられるのは、私以外誰もいないじゃないか。

 

嫉妬や焦りと、どうしようもない不安で私の心はいっぱいになっていた。というのも、彼女はフェミニストで、イギリス在住で、日英の文化的価値観に関する知識や情報の引き出しが豊富で、年齢もそこまで変わらなさそうで、つまり私と共通項の多そうに見えるのだ。そんな彼女が社会から注目されているのを見て、私の自分に対する特別感(自己肯定感に近い)が消え失せてしまったのだと思う。

私はイギリス在住の日本人で、フェミニストで、政治に関心があって、日英文化の間にいるダイアスポラ的な独自の世界の見方を持っていて、だから他の人とは少し違う特別な存在なのだと、どこかで優越感に浸る自分がいたのだ。これは、子どもが自身に抱く屈託のない特別感とは少し訳がちがう気がする。私は自分と周囲を比較し優劣をつけるという醜い作業の中で、自分を客観視できているとずっと勘違いしていたし、心のどこかで安心していた。でも、自分と似通ったバックグラウンドを持つ人がごまんといるのが現実で、そんな人と出会う度に自信や自己肯定感を失っていてはキリがないのだ。しかも、そもそもバックグラウンドというのは、教育、仕事やその他肩書きなどのことも示していると思うが、そんなものはその人の付属的な情報でしかないと思うし、人の個性や特別であることというのはもっと奥深いはずだ。きっと私たち一人一人が、各々の形で特別なのだ。

 

私は日記や好きな言葉をぶつぶつと思うままに書くという記録としての作業はここ数年ずっと続けてはいても、それを人に伝えてみたいと思うようになったのは本当に最近のことだ。きっかけは多分上野千鶴子雨宮まみ鈴木涼美湯山玲子などのフェミニスト文化人や学者のコラムやエッセイ、学問本をたくさん読んだことで、思えばそれらを吸収するうちに、私の小さな夢みたいなものがいつの間にか手のひらで密かに光っていた。私も自分の伝えたいことー日英のフェミニズムや政治などについてーをいっぱい考えて、勇気を出して言葉にして、人に伝えてみたい。エッセイ本なんかも書いたり、雑誌に寄稿したりもしてみたい。私にしか書けないことを書いていこうと鼻息巻いて日々過ごしていた時に、いわば私とある程度似た興味やバックグラウンドを持った彼女が、私が書いてみたかったようなフェミコラム連載を始めると言うのを聞いて、不安を隠しきれなかった。じゃあ、私は何者になって何をすればいいのだろうと肩を落とした。私は本当は特別なんかじゃないのかもしれない。私の嫉妬や焦りは、ここから来ていたんだ。あ、ちなみに彼女はイラストに限らず多岐にわたる分野で活動していらっしゃって、私はとても尊敬しています!

 

自分を特別だと思うことが必ずしも悪だとは私は思わない。むしろ、そんな自分への特別感が自分自身を鼓舞するために必要な時だってあるし、自分を尊重するための大切な心理でもあると思う。でも、そんな特別感に盲目的に浸ってばかりいては、確かな自信や社会における自分の存在意義を見出すことなどきっとできないのだ。私は何者で、私だからこそこの社会でできることとは何なのか、そんなことを振り出しに戻って考えてみたい。答えが出なくても、たとえ社会の椅子が私に用意されていなかったとしても、きっと大丈夫。私は私でい続ければ、その先にあるものは自ずとやってくるのだと信じて。